2014年6月15日日曜日

教養は「何のため」か

 前回、 教養に関する3つの疑問 ①「なぜ学ぶ必要があるのか」、②「どうやって身につければよいのか」、③「そもそも教養とは何か」のうち、③について、教養とは「『人間性』や『人格』と結びついた知識である」ということを述べた。

 本稿では①「なぜ教養学ぶ必要があるのか」について、「ビジネスマンにとっての意義」という切り口で考察してみたい。


(出典)http://free-photos.gatag.net/tag/%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8



ビジネスマンとしての教養の意義



 教養の必要条件(十分条件ではない)はやはり「(専門外の幅広い)知識」であることは間違いないであろうが、そもそもオフィスワークをしているビジネスマンが「能」や「ローマ帝国の五賢帝」や「アリストテレス」について知っていることに、一体何の意味があるのだろうか。

 巷のビジネス本では「教養を学ぶ意義」について、以下のようなことが書かれていることが多い。
 欧米のエグゼクティブ達は国内外の歴史や文化に精通している。日本人はパーティーや交渉の場で彼らと会ったときに、「最近葛飾北斎展がうちの国でもあってね・・・」とか「宮沢賢治の自殺の理由は・・・」といった話題についていけず、コミュニケーションが円滑に進まない。
 したがって、日本人は欧米人と対等な関係が築けない、とかビジネスの場で外国人の相手と距離感を縮められないというわけである。

 全ての日本人に一般化するのは強引かもしれないが、納得感はある。ただ、これが「教養を学ぶ意義」だとすると、あまりに薄っぺらいと言わざるを得ない。そもそも、ビジネスの場でそんなレベルの外国人と面と向かって話す機会のある人は日本人全体の数%にも満たないのではなかろうか。

「無駄」という価値


 もう一度、本題に戻ろう。「ビジネスマンが教養を学ぶ意味」について、身も蓋もない言い方をすると、先ほど下線部で示したような知識をもっていることは、実務や専門という観点でいうならば「無駄」である。

 しかし、言葉遊びかもしれないが、この「無駄」ということに重要な意味がある。ここで「無駄」という言葉を「合理的」の反対用語と定義するならば、教養とは「こてこての『合理的思考』から一歩下がる」ために身につける意味があると私は思う。

ハインツのジレンマ

 これを説明するために、「ハインツのジレンマ」という心理学の例題を取り上げてみる。この例題は、ハーバード大学の心理学者であるローレンス・コールバーグが作ったもので、彼は子供に次のような問題を考えさせ、道徳性の発達段階を分析・分類しようと試みた。

ハインツという男がいます。ハインツの奥さんはガンで死にかかっています。お医者さんは最近売り出された特効薬を使うしかないと言っています。その薬の開発者は、開発費の10倍の値段を付けているため、薬はとても高価です。ハインツは募金を集めましたが、値段の半分しか集められませんでした。ハインツは開発者に交渉しましたが、色よい返事はもらえませんでした。ある日ハインツは、愛する妻のため、薬のある倉庫に忍び込み、盗み出しました。 

 さて、この行為をどう考えるか。子供達に答えさせた結果、コールバーグは「男の子はより明確に判断を下していてスコアが高く(=発達段階が高い)、女の子は判断が下せずに、スコアが低い」という結論を導きだした。

 中には、「開発者の所有権とハインツの奥さんの生存権のどちらが高いかという問題だから、そこを決定すれば正しい答えが出る」などという大人顔負けの論理を導きだす11歳の男の子までいたという。

「正解」ではなく「最良」を求めること


 しかし、キャロル・ギリガンという倫理学者はコールバーグの結論に反発した。この物語で設定した問題は、現実に起きたとしたら算数のように一つの答えで解けはしないのだから、「答えは出せなくて当然」というわけである。

 ちなみに、コールバーグの実験ではスコアが低いとみなされてしまう、11歳の女の子の答えはこういうものだ。

 「製薬会社をちゃんと説得する方法はないものだろうか、もっとお金を集めることはできないのか。奥さんのためにと盗みを働いた夫が捕まったら、自責の念にさいなまれた奥さんは病気が重くなってしまうのではないか…」

 11歳の女の子はこういったプロセスを考えていて結論が出せなかった。これは「発達段階が低い」と見なすべきなのだろうか。

 ここで大事なのは、彼女が思いを巡らせているのは、ハインツの取った方法が正しかったか間違っていたかについてではなく、ハインツの奥さんが助かるにはどうしたらいいだろうか、という具体的な状況に対するコミットメントのあり方についてであることだ。言い換えれば、なるべく誰もが傷つかないで、最良の結果=奥さんが助かる道筋を円滑に見つけていこうとすること、ケアの仕方に焦点を当てているのだ。

 この話を踏まえて「教養の意義」について戻ろう。先ほど「こてこての『合理的思考』から一歩下がる」ことが教養の意義として重要であると述べた。これを噛み砕くなら、上の例題の11歳の男の子のように、決められた枠組みの中で「正しい答え」を(論理的に)見つけるのではなく、枠にとらわれない多角的な視点で、皆がWin-Winとなれる「最良」の答えを考え抜く力を養うために教養を身につけるべきということだ。

「教養」は「遊び」と同じ



(出典)Wikipedia

 ただし、ここで述べた「教養の意義」は、「ビジネスマンの能力」という切り口から述べた一つの解に過ぎないことに留意する必要がある。昨今の「教養ブーム」によって、このような「能力」的な側面が強調されてしまっているが、それはおそらく「本質」的ではない。

 本来、教養といわれるもの、様々な学問や芸術、文化等は「学ぶ」ことそのものに意義がある。そこに「何が得られるの?」という合理的な思考が介入する必要はない。教養に関する「学び」はどんな人であろうと、その人の人生を豊かにすることにつながるからだ。この豊かさは教養の構成要素の一つである「人格」「人間性」と不可分である。

 はるか昔、ギリシャ文化や平安文化の時代、「学ぶこと」は一部の上流階級のみが行うことのできる最高級の「遊び」であった。「教養をがんばって身につける」ことよりも、もう一度「学ぶこと本来の楽しさ」に立ち返ることが現代の人にとって重要なのだろう。



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