2014年6月4日水曜日

「教養とは何か」について考えてみる


(出典)GATAG
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 「教養を身につけた方がいい」と言われたことはないだろうか。決して注意喚起という意味ではなくても、「教養の重要性」を語る声は、大学時代の学部の先生や会社の上司、NHKや書店の平積みの本の中から日常的に聞こえてくる(少なくとも筆者の周りでは)。

 ありふれたメッセージであるにもかかわらず、教養の習得をリコメンドされたときに、「よし、明日から教養を身につけよう!」と昂揚する人は希有である。おっしゃる意味がよくわからないからだ。

 一般的に、脈絡なく「教養を身につけろ」と言われた場合、意識・無意識は別として次の3つの疑問が生じる。「なぜ?」「どうやって?」「そもそも教養って何?」。。


教養とは何か


 「そもそも教養って何?」という疑問は特に重要である上、難しい。「教養」という言葉自体、「愛」とか「幸せ」と同じようにあまりに漠然としている。具体化するために質問を少しずらして「『教養のある人』とはどんな人か?」について考えてみる。


教養のある人とはどんな人か

 やや主観的ではあるが、例えば普通の会社のサラリーマンでいながら、能や茶道に精通していたり、ローマ帝国の五賢帝をそらで言えたり、休日にアリストテレスの『ニコマコス倫理学』を読んでいるような「幅広い知識」を持った人は「教養のある」人と認識される可能性が高い。

 しかし、日本語の権威である広辞苑によると「幅広い知識」だけでは足りないらしい。

教養とは、
「単なる学殖、多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。その内容は時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる」
とのことである。筆者なりの言葉でざっくり言うと、「頭でっかちな物知りではなく、『人間性』や『人格』にまで落とし込められた知識」となる。

 もちろん、広辞苑の答えは一つの意見であって、未だに「教養」に対する世の中の共通理解はなされていないが、「『人間性』や『人格』に直結する何か」というのは的を外してはいないはずだ。

 例えば、「知識がないね」と言われるなら、「あーそうですね、すみません」で終わる。しかし、「教養ないね」はもう少しヘビーである。このコメントは、聞き手はまるで人格を否定された気分になる。(実際、言う側もたいてい悪意もしくは皮肉がこもっていると思われる)

 その意味で、「教養」は「(専門外)の幅広い知識」のことではなく「教養のある人(以下、教養人)」は「物知り」とイコールではない。このことについて、数学的な思考で捉えてみよう。

「教養」を式と図で表すとどうなるか


 まず、物知りについて。これは2つのタイプがある。1つは「雑学」とか「トリビア」についてよく知っているタイプである。これは、「そんなことも知ってるんだ」という幅広い物事について知っていながらも、理解度は浅く、情報同士が頭の中で関連づけられていない状態の人である。

 雑学タイプ = 情報A + 情報B + 情報C + 情報D +・・・・+ 情報X

 イメージにすると以下のとおり。



 もう1つは、いろいろな情報をただ知っているだけでなく、それぞれが関連づけられ、「知識」となっている、いわゆる「物知り」タイプである。これらの人々は、比較的深い部分で理解できており、1つ目の雑学タイプと異なり、自分が知っていることについて何時間でも語ることができる。

物知りタイプ= 知識 × 分野数 = 情報A ×情報B ×情報C × 情報D × ・・ × 情報X
 
 イメージにすると以下のとおり。



 「物知り」タイプはいろいろなことを知っており、語ることもできるが、それだけで「教養のある人」にはならない。「教養人」は、知識の下に「人格」や「人間性」という土台がある。その「人格」と「人間性」を形作るものは「経験」であり、「教養人」は知識と経験が結びついた状態にある。

 教養人 = 知識 × 分野数 × (経験値)
 
f(x,y,z ...):人間性関数 
↑ 人間性は経験の他、環境や人間関係等の様々な要素から構成されるため、f(x,y,z ..)という記述方式を採用した。

 イメージにすると以下のとおり。



 「単なる知識」と「教養」の違いについて、以上のように整理できた。「教養とは、『人間性』や『人格』と結びついた知識である」ということを伝えたいがために、長々と頁を割いてしまった。次回は、「なぜ、教養を学ぶ必要があるのか」、「どうやって教養を身につければ良いのか」について考えてみたい。

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